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東京地方裁判所 昭和48年(合わ)131号 決定

理由

〈中略〉

第二日石土田邸事件関係

被告人Mの日石土田邸事件に関する供述調書は三月一三日付検面調書が最初のものであり、以後五月四日までの間に多数の供述調書が作成されており、その後六月五日付の員面調書も作成されて、いずれも取調べが請求されている。ところで、同被告人は、三月六日第八、九機動隊事件で起訴された後、三月一四日日石事件及び土田邸事件並びにピース缶爆弾製造事件により逮捕され、三月一六日これらの事件により勾留され、四月四日に土田邸事件及びピース缶爆弾製造事件により起訴され、その後五月五日に日石事件により起訴されたものである。そこで、以上の供述調書については、作成時期の点から、三月一四日の日石土田邸事件による逮捕前に作成された供述調書、右両事件の逮捕、勾留中に作成された供述調書及び四月四日の土田邸事件の起訴の後に作成された供述調書に大別して検討することにする。

一日石土田邸事件による逮捕前に作成された供述調書の証拠能力

(一)  事実関係

この間に作成された供述調書は三月一三日付検面調書及び同日付員面調書であり、いずれも被告人Mが両事件に正犯として関与したことを認める趣旨の自白をその内容とするものである。そして、これらの自白が日石土田邸事件に関する被告人Mの最初の自白であるばかりでなく、共犯者とされる者らの中でも最初の自白である。

ところで、右自白に至る過程については、被告人Mが供述するところとその取調べを担当した捜査官が供述するところとの間にかなりの相違が見られるので、慎重を期するために、さしあたり被告人Mの供述のみに現われている事実を除き、その余の関係証拠、ことに捜査官側の証拠によつて十分認めることのできる事実に従つて述べると、つぎのとおりである。

(1)  被告人Mは、第八、九機動隊事件の二〇日間の勾留満了日である三月六日、同事件により起訴され、以後同事件及びすでに起訴済みのアメリカ文化センター事件の二つの勾留の下に置かれるに至つたが、その翌日である三月七日から、新たな被疑事実である日石土田邸事件について令状によつて逮捕勾留されることなく、いわゆる別件起訴勾留中における余罪の捜査としての取調べが本格的に開始された。

この時点から被告人Mに対し日石土田邸事件に関する取調べを開始することになつたのは、ピース缶爆弾事件の共犯者の一人とされているSが、勾留中司法警察員の取調べに対し、昭和四八年一月一九日、「保釈中の昭和四八年一月四日から六日までの間に被告人M及び同Eと会つて渋谷の喫茶店「プランタン」等で話し会つた」旨を供述し、さらに同年二月一四日には、「右喫茶店では、被告人Eが、昭和四五年六月ごろに製造され爆発実験が行われたといういわゆる六月爆弾のことが発覚したら、日石、土田邸事件も発覚してしまう」との趣旨の発言をした旨、並びにこれらの事件には被告人M、同E及び同Nが関与していることを示す発言をした旨を供述し、そのようなことから被告人Mに右両事件の嫌疑が生じたことによるものである。

(2)  ところで、まず、三月七日付取調状況報告書によると、同日の取調べは、午後一時三〇分から午後一〇時一五分まで、警視庁刑事部管理課二〇号調室において丙警部補外三名が在室して行われたが(もつとも、常時四名が在室したわけではない。)、同報告書に記載されている取調状況は、つぎのとおりである(文字の一部修正及び句読点の付加以外は原文のままである。)。

「1 八機、文化センターの関係において嘘を言つていたことを強力に衝いて、今後は中途半端な態度で対処できない旨を強調し、弁解を聞かない姿勢で被疑者の口を閉じさせた上すべてを清算しろと向け、午後二時三〇分『土田邸と日石を清算しろ』と切り出したところ、態度としては平静を装い、『え、僕が土田邸をやつているというんですか。ちよつと待つてくださいよ。あれはいつだつたんですか。僕はやつてませんよ』と声を荒げるわけではなく、やや弱くキョトンとしたような状態で若干しどろもどろに弁解する。

2 右時点における表情は、顔面色は普通なるも、顎から下頬にかけて若干鳥肌が立つた。

3 この後、総べて清算して綺麗な人間となつて再出発を誓えるよう十分反省することを説得すると、力強い言葉に対しては、『やつてませんよ。そのころ闘争をやつてませんよ』と声強く反撥し、耳元に近く静かに『次元の低いことをいうんじやない。われわれはこれだけの重大事件をぶつけて調べるにはプロの捜査官として相手の人権を尊重しながらやつているんだ。あやふやなことでなく確たる証拠、資料を積み重ねて、君にやっているのかどうかと聞いているのじやなく、君がやつたこの事件を清算する決断を下すように話しているんだ』と説得すると、何の反論もできず、うつろな目を視点の定めなきところに向けている。

4 午後五時一五分から同六時一五分まで夕食休憩とし、その後説得を続け、午後八時、土田邸被害者の写真を顔前につきつけ、語気強くあらゆる言葉をぶつけて反省、清算を迫ると、『爆弾闘争そのものは間違つていました。十分反省して清算します』と申し立て、八機、文化センターの隠していた点を申し立てたので、そんなことは聞いているんじやないとはねつけると、しばらくして『紙と鉛筆を下さい。自分の気持を書く』と申し立てたので、『心の底から反省できるまで何も聞かん』とはねつける。こちらが並々ならぬ心構えでやるという言葉を察し、『自分も頑とした態度で立ち向います。それはやつていないといい張るのでなく、白黒をつけてもらうためにやります』と申し立てる。

5 この後しばらく説得してから午後九時一五分再び写真をつきつけ、『人間の血が流れているなら被害者、仏様の前に線香でもあげる、あるいは申しわけないと涙の一つも流してみろ』というと、『爆弾事件は申しわけない。でもこれはやつていない』と主張した。その際言いわけは聞かんと説得すると、うつろな瞳で捜査官をにらみつけるような態度をとつていたが、入房に際しよく考えておけと申し渡すと『はい』と答えていた。」

以上のとおりである。

そこで、同日の取調状況についての証人丙の供述を併せて検討すると、おおむね右報告書の記載どおりの経過で取調べが進められたことを認めることができる。すなわち、同日は、日石土田邸事件を厳しく追及する意図の下に午後一時半ごろ取調べを開始し、まず、約一時間にわたり、アメリカ文化センター事件及び等八、九機動隊事件で嘘を述べていたことを指摘、強調し、被告人Mが弁解するのを封じたうえ、午後二時半ごろ日石土田邸事件について清算するように求め、同被告人が犯人であることの確実な証拠、資料が集積されている旨告げて、午後八時ごろまで厳しい説得と追及を繰り返したこと、午後八時ごろになり、土田邸事件の被害者土田民子夫人の生々しい死体写真を含む現場写真を示して精神的に動揺させようとしたうえ、さらに反省を求め自白を迫つたが、その際の状況につき、右取調状況報告書に「語気鋭く、あらゆる言葉をぶつけて」反省、清算を迫つたとあり、また、被告人Mの弁解は何も聞かないという強い姿勢をとり続けた趣旨の記載があることからしても、被告人Mに有無を言わせず、同人を圧倒するような勢いで強い非難の言葉等を投げかけながら、激しく自白を迫つたこと、しかも夕食後は取調官四名が在室して取調べにあたつていたことからして、四人がかりで右のような追及を続けたこと、そして、さらに、午後九時を過ぎた時点で再び前記被害者の写真を示して謝罪を求めるなどして自白を迫つたが、否認のまま、午後一〇時一五分ごろ取調べを終えたことを、認定または推認することができる。

なお、右取調べが行われた二〇号調室は、地下にあり、面積約6.72平方メートルの個室である(当裁判所の検証調書参照、公判記録第四四冊一六三一七の二丁)。

(3)  つぎに、三月八日から一二日までも連日二〇号調室で取調べが行われたが、留置人出入簿によれば、その間における麹町警察署の出房及び帰房の時刻は、

三月 八日 午後二時出房、

午後一〇時帰房

三月 九日 午後一時三〇分出房、

午後九時四七分帰房

三月一〇日 午後二時一五分出房、

午後一〇時四〇分帰房

三月一一日 午後一時一〇分出房、

午後一〇時一〇分帰房

三月一二日 午後零時四五分出房、

午後九時二五分帰房

となつており、警視庁取調室への押送に要する時間を片道三〇分と見てこれを差し引いた時間を取調時間と見ると、この間はほぼ午後二時ごろから午後九時ないし一〇時に至る間、一日七時間ないし八時間にわたる取調べを受けたものと認められる(夕食時間を含む。)。これを第八、九機動隊事件の勾留中における取調べと対比すると、取調時間の点ではほとんど同じであるが、時間帯の点で取調開始時刻及び終了時刻がともに遅くなり、連日ほとんど午後九時以降に及んでいるものであり、第八、九機動隊事件で取調べを受けていた期間よりむしろ厳しいものになつていることが認められる。

つぎに、この間の取調状況については、丙証人の証言によれば、取調状況報告書は作成されていないとのことであり、同証言だけでは取調べの具体的状況は必ずしも十分明らかになつているとはいえないが、原則として四名で取調べに当たり、三月七日の取調べと同様に追及、説得を行つたというのである(もつとも、被害現場の写真を示すことはしなかつたという。)。

そして、丙証言、第六〇回及び第六一回各公判調書中証人Hの供述部分、刑訴法三二八条の証拠として採用したHの員面調書四通(証拠記録併三冊三九二〇丁)の記載自体によると、前記Sの供述(喫茶店「プランタン」における会話)に関して被告人Mを追及するとともに、二月二八日に当時被告人Mと同房であつたHが被告人Mの依頼により東京地検押送室でAと意思連絡を行つた事実が、三月四日被告人M及びAからほぼ同時に発覚し、三月六日、七日、一〇日、一一日の四日間にわたり、被告人Mの取調べを担当していた甲、乙両巡査部長(但し、三月七日、一〇日は乙巡査部長のみ)がHを取り調べ、右意思連絡についてのほか、同房中に被告人Mから聞いた話の内容、ことに爆弾や点火装置の製造方法の話や目白雑司ケ谷付近等の地理的状況の話の内容について詳しく聴取し、さらに三月一一日にはHから、同人が被告人Mから「土田のことはいうな。死活問題だ。」などと口止めをされた事実があつた等の供述をも聴取して、これらのHの供述をもとに土田邸事件について追及したことが認められる。

また、丙証言及び三月一一日のメモ作成状況に関する報告書によると、同日、日石土田邸事件前後からアメリカ文化センター事件による逮捕に至るまでの間の行動についてのメモを被告人Mに作成させ、それを手がかりにして、その中に現われた、捜査結果と異なる点について追及を行つたことが認められる。

さらに、丙証言及び被告人M作成の三月一二日付「誓約書」と題する書面によると、被告人Mは、三月一二の夜取調べを終る前に藁半紙に「誓約書 今後爆弾事件に関し総て清算する覚悟です。記憶にない事がありましたら思い出してお話しいたします。深く反省しておりますのでよろしくおねがいいたします。昭和四八年三月一二日M」と書いて差し出したことが認められる。そして、丙証人は、この「誓約書」が書かれた経緯について、「彼(被告人M)は爆弾やつていないと、記憶にないんだということで、思い出したらどうするんだ(と尋ねると)、思い出したら清算しますと(答えるので)、じやそれを書けと、これだけのことです」と供述し、それを書かせた目的につき、「要するに心理的に本人を束縛というとおかしいですけれども、そういう関係ですね。圧迫、心理的に」、「要するに、こういうものを書いたから、記憶があればいわなければならないんだということを本人に思いこませるということです。」と供述し、「深く反省している」との記載の趣旨について「反省している、というから、反省していると書け、ということじやないんですか」、何に対してどう反省しているのかとの問に対し、「それはわからないですね」、「そういう文面で書けとはいいませんから」と述べ、その記載についてどう思つたかとの問に対しては、「それはまた(彼)一流のやり方だね、ということで別に気にもとめてません」、「別に先程言つたように、そんなに深く思わないですよ。こちらは、しかも、(取調べを終えて)帰る間際ですから、こうこれでいいやということでおしまいです」と供述している(第八三回公判)。

(4)  そこで進んで、丙証言、証人丁の供述(第七六回ないし第七八回、第八〇回、第八一回各公判)、三月一三日付検面調書及び員面調書(主文第三表番号1、第四表番号1)、三月一三日のメモ作成に関する報告書により三月一三日の取調状況を見るとその日は検察官による取調べが前日から予定されており、被告人Mは、二〇号調室で、午前一一時近くから、まず丙警部補による簡単な雑談的な取調べを受けた後、出張して来た丁検事による初めての取調べを受け、友人関係やアメリカ文化センター事件による逮捕前保釈中に会つた者及びその会話内容等について取り調べられ、昼食休憩後、同検事は、午後二時ごろから取調べを続行し、昭和四六年の爆弾事件について記憶している事件があるかという質問を発し、被告人Mが一件一件名を挙げて行き、最後に日石事件及び土田邸事件を挙げたので、「その犯人は誰か」旨尋ねたところ、同被告人は「自分がやつた」旨自白し、これらの事件の骨子となる事実について質問して、その結果を同日付の検面調書に録取したものであることが認められる。なお、同検事がその取調べの際に同被告人を心理的に威迫するような違法、不当な取調の方法又は態度をとつた事実は被告人Mも供述しないところであつて、そのような事実はなかつたものと認められる。

この自白と関連して被告人Mは、丁検事の午後の取調べの際、弁護人である戌弁護士が接見に来たので、同検事が接見させるよう丙警部補に告げて退室したが、一時間から一時間半待つたあとで、同警部補から「弁護士が帰つてしまつた。弁護人にも見捨てられてしまつた」旨告げられたうえ、日石土田邸事件について逮捕される前に余罪として認めるようにいわれ、やむなく認めることにし、その後丁検事に対し自白したものである旨弁解しているが、前掲証人丁及び同丙の各供述、証人己の供述(第一四二回、第一四七回、第一五四回公判)を総合すれば、戌弁護士は午後三時ごろ被告人Mと接見するために警視庁を訪れたが、その際同被告人は日石土田邸事件についての自白を始めており、ただ自白調書は未だ作成されていなかつたものと認めるのが相当であり(自白前であれば、あえてこの段階で接見を拒否しなければならない切迫性を認め難いように思われる。また、三月一三日付検面調書によれば、重大な自白を得ていながら、具体的事実関係についてさらに取調べを続けることなく、急いで自白調書を作成し取調べを終えていることがその記載内容自体から窺われるが、これは、自白を始めた後に弁護人が接見のため来庁したので、接見をさせる必要に迫られ、とりあえず調書の作成をしたことによるものと考えられる。なお、戌弁護人は、取調べ中である旨告げられてしばらく待つたうえ帰つたことが窺われる。)、被告人Mが弁解するような経緯があつたために自白するに至つたものではないと認められる。

そして、丁検事の取調べ後、引き続き丙警部補が夕刻から午後一〇時ごろまで取調べを行い、自白調書を作成したものであることが認められるが、その際にはすでに検察官に対し自白した後であつて、特に執拗な追及が加えられることもなく、自白が得られたものであることが認められる。

なお、被告人Mが自白するにしても、なぜ最初に司法警察員に対してしないで検察官に対してしたかについては必ずしも明瞭ではない。あるいは、同被告人が司法警察員よりも検察官に一種の信頼感を抱いていたため、たまたま三月一三日の午前から検察官の取調べがあつた機会に自白したのではないかと考えられるが、これは推察にとどまる。しかし、いずれにしても、同日の検察官に対する自白が前日までの司法警察員による取調べによつて形成された前記のような心理状態に基づくものであり、その間に因果関係のあることは否定し得ないところである。

(5)  ちなみに、接見報告書によると、二月二五日から三月一三日までの間には、弁護人の接見は一度も行われていない。

(6)  以上の各事実から考えると、捜査当局は、日石事件及び土田邸事件発生後すでに一年以上を経過し、その一日も早い犯人検挙に腐心していたが、被告人Mが両事件の犯人であることを窺わせる有力な証拠である前記Sの供述を得て、三月六日被告人Mを第八、九機動隊事件について起訴するや、日石土田邸事件について逮捕、勾留を請求することなく、同被告人の起訴後の勾留状態を利用し、両事件について一気に同被告人に迫つて厳しく追及し、その自白を得ようとしたものであることが明らかである。なお、この時期においては、被告人Mを両事件に直接結びつける証拠としては、右Sの供述が唯一のものであり、確証があつたとまではいえないものであつた。

そして、三月七日の取調べ状況は、被告人Mに対し、日石土田邸事件に関して供述を求めてこれを聴こうというものではなく、すでに他に確証があるから両事件につき清算せよ、すなわち自白せよと迫つたものであつて、甚だ厳しいものであつたといわざるを得ないものである。三月八日から一二日までの取調べ状況は、七日の取調べほどには明らかではないが、七日の取調べ状況及び当初日石土田邸事件を全く否認した被告人Mが三月一二日の夜前記誓約書を書くに至つたことからすれば、右の間の取調べも七日のそれに劣らない厳しいものであつたと推認されるのである。

ところで、被告人Mは、アメリカ文化センター事件による逮捕以来四五日間の身柄拘束を受け、前記のとおり、その間同事件及び第八、九機動隊事件等について一日の休みもなく、かつ、毎日相当長時間に及ぶ取調べを受け、肉体的、精神的にかなり疲労した状態にあつたと認められるが、このような同被告人に対し三月七日以降右のような取調べを行つたものである。すなわち、その取調べは、連日夜遅くまで地下の狭い取調室で、捜査官三名ないし四名が在室し、初めに生々しい被害現場の写真をつきつけ、日石土田邸事件を清算せよと強く迫り、ついには、もし爆弾事件について覚えがあるならば供述するという趣旨(「記憶にないことがありましたら思い出してお話しいたします。」とあるのはこの趣旨に解される。)で前記「誓約書」を書かせるに至つたものである。そうだとすると、被告人Mは、遅くとも一二日の夜取調べの終わる段階では、翌日以後の取調べにおいては自白をせざるを得ないように相当追い詰められた心理状態に達しており、翌一三日の検察官に対する自白、ついで司法警察員に対する自白は、このような心理状態に基づくものと認められるのである。換言すれば、三月七日から一二日までの間の司法警察員による前記認定のような取調べの方法がとられていなかつたならば、三月一三日における自白はされなかつたと認めるに十分であつて、すなわち、司法警察員による右のような取調べと右自白との間に因果関係があると認められるのである。

もとより三月七日から一二日までの司法警察員の厳しい追及に対する前記認定のような被告人Mの態度自体の中に、また、一三日の検察官に対する自白の態度の中に、同被告人の反省とも思われる気持の動きを看取し得ないではないにしても、基本的には、その自白は前記のような追い詰められた心理状態に基づくものと認められるのである。

犯罪を自白した者は、往々胸につかえていた物が下りたように気持ちが平静に戻り、気分と表情が明るくなるものであるが、三月一四日以後の取調状況報告書によると、被告人Mにはこのような気分や表情の変化は見られず、むしろ沈鬱な表情が続き、自棄的な態度が見られたことが窺われる。このことは、被告人Mの固有の性格によるところもあろうが、前記自白が全く任意にしたものでなく、捜査官の追及に対しやむを得ず述べてしまつたという気持ちの現われでもあると思われるのである。

(7)  なお、被告人Mは、公判において、三月八日以後の取調べでも土田邸事件の被害者の写真を見せられたこと、その写真を見せられた際に顔を机に押しつけられたこと、また、取調官が定規で激しく机を叩いたためにその破片が顔にあたつたこと、捕繩で叩かれたこと、茶腕を投げつけられて割れたこと、一〇月ごろまで令状を用意しており、いつまでも勾留して調べるといわれたことその他の違法不当な事実を供述しているが、果してそのような事実があつたか否かの点につき審究するまでもなく、少なくとも以上(1)ないし(6)で認定した事実は、捜査官側の証拠によつてもこれを認めることができるものである。

(二)  判断

以上の事実関係をもとに三月一三日付検面調書及び員面調書の証拠能力について判断する。

(1)  自白の任意性について

まず、これらの供述調書に録取された自白の任意性について考えると、三月七日から同月一二日までの六日間にわたる取調べについて見れば、すでに詳細に認判旨定したとおり、日石土田邸事件につき令状を得ることなしに、証拠としてはいわゆる「プランタン会談」についての前記Sの供述調書がほとんど唯一の証拠であつたにもかかわらず、確実な証拠がある旨告げ、被告人Mを犯人である旨極めつけるに近い取調べを開始し、すでに身柄を拘束されて以来約四五日を経過し、その間連日相当長時間の厳しい取調べを受けて肉体的にも精神的にも相当疲労している同被告人に対し、取調官三名ないし四名在室した状態で、連日夜間に及ぶ相当長時間の取調べを行い、その間厳しい追及、説得等を執拗に継続したものである。このような取調べは、被疑者に対して自白を強要するに等しいものであるといわざるを得ない。そして、そのために、被告人Mは、さらに肉体的、精神的疲労を深め、その結果、同被告人は、遅くとも三月一二日の夜取調べの終わる段階では、翌日以後の取調べにおいては自白をせざるを得ないように相当追い詰められた心理状態に達しており、翌一三日の検察官に対する自白、ついで司法警察員に対する自白は、このような心理状態に基づくものであつて、このことも、すでに認定したところである。そうだとすると、これらの自白はその任意性に疑いがあるといわざるを得ないものであつて、そうである以上、これらを録取した各供述調書は、この点において、被告人Mに対する関係においてばかりでなく、他の被告人らに対する関係においても証拠能力がないものである。

(2)  別件勾留中の余罪取調べとしての適法性

つぎに、この時期の取調べにつき別件勾留中の余罪取調べとしての適法性の観点から考察しなければならない。すなわち、三月七日から一三日までの七日間にわたる被告人Mに対する日石、土田邸事件の取調べは、右にも述べたとおり、別件のアメリカ文化センター事件及び第八、九機動隊事件の起訴後の勾留中に、日石土田邸事件について逮捕勾留することなく、いわゆる余罪の取調べとして行われたものであつて、七日間という比較的短い期間の取調べであり、また、日石土田邸事件という重大かつ捜査の困難な事件の取調べであるが、それに先立つ四五日間の連日の取調べをも考慮に入れ、別件の起訴後の勾留中にその余罪の捜査として右に認定したような取調べが許されるかどうかの問題である。

ところで、刑訴法一九八条一項は、「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、被疑者の出頭を求め、これを取り調べることができる。但し、被疑者は、逮捕又は勾留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる。」と規定している。この規定の文言からつぎのように解される。

(イ) 被疑者が当該被疑事件について逮捕又は勾留されていない場合には、取調べを受けるかどうかはその任意であり、取調べ開始後も何時でも拒むことができる。

(ロ) その反面、被疑者が当該被疑事件について逮捕又は勾留されている場合には、取調べを受忍しなければならない(もとより黙秘権はある。)。通説的見解であり、当裁判所もこれに従う。

(ハ) 被告人を当該被告事件について取り調べることができるかどうかに関しては見解は分れているが、判例(最高裁昭和三六年一一月二一日第三小法廷決定、刑集一五巻一〇号一七六四頁)は、刑訴法一九七条が任意捜査について制限を設けていないことを理由として、取り調べること自体は違法ではないとしており、当裁判所もこれに従う。ただ、その取調べは、任意捜査としてであるから、右(イ)の原則に従わなければならないものである。

なお、取り調べ得る事項も、被告人が取調べを希望した場合は別にして、その地位にかんがみ、当該被告事件の捜査の補充的事項に限られるべきものであり(その事項的限界をさらに詳細に判示することは、本決定では必ずしもこれを要しないので省略する。)、もし取調べがこの事項的限界を超えた場合、その取調べの結果作成された供述調書は、当事者の証拠とすることに異議がなく、または同意があり、その取調状況も考慮して証拠とすることを相当と認めることができる等の特別な理由があるときを除いて、証拠能力がないと考えられる。但し、当該被告事件が被告人に対する別の被疑事件と実質的に関連するため、後者の取調べが前者にも及ぶ必要のあるような場合は別論である(なお、以上、(ハ)の判示は、前記第一の二(一)(5)、同(二)(1)及び第一の三(二)3並びに後記第二の三(2)に関係があるものである。)。

(ニ) 被告人を当該被告事件以外の被疑事件について取り調べることは、この規定の本文から許されるところであるが、その被疑事件につき逮捕又は勾留されていない以上、その取調べは右(イ)の原則に従わなければならない。したがつて、もし当該被告事件について逮捕又は勾留されている場合でも、右被疑事件の取調べは、取調べ時間、方法等の点において身柄不拘束(在宅)の被疑者を取り調べる場合に準ずるように配慮しなければならない。

なお、右(イ)の原則に従う取調べにおいて、被疑者が取調べを受忍する義務がないことを知つており、かつ、取調べ前又はその途中において明示的に取調べを拒否することがなかつたとしても、取調官において、たとえば長時間の執拗な質問をすることによつて被疑者の取調べ拒否の自由意思を事実上抑圧するような取調べをすることは許されないところである。

判旨これを本件について見ると、被告人Mに対する昭和四八年三月七日から一三日に至る取調べは、本来右(ニ)の場合に当るから、取調時間や方法の点で在宅被疑者に対する任意捜査に準じた配慮が払われるべきものである。しかし、その取調べの実情は、すでにそれまでの四五日間にわたる逮捕、勾留中の連日の取調べにより疲労している被告人Mに対し、引き続いてさらに起訴された事件よりもはるかに重大に被疑事件について、連日、狭い取調室において警察官三、四名がかりで七ないし八時間、午後九時ないし午後一〇時に及ぶ取調べを行い、そのうち三月七日から一二日までの間の取調方法は前記認定のような厳しいもので、この取調べの結果、三月一三日に検察官の取調べにおいて自白するに至り、その後の司法警察員の取調べにおいても自白するに至つたというものである。このような取調べは、全体として、任意出頭による取調べとしては到底行い得ないものであり、たまたま被告人Mは別件による起訴勾留中であるために極めて不本意ながら取調べに服していたものと認められるのであつて、これを要するに、任意の取調べとして許容される限度を超えた違法な取調べが行われたものといわなければならないのである。

もつとも、土田邸事件及び日石事件の捜査を使命とする警察当局としては、両事件は事案重大であるとともに、事件発生後すでに一年数か月経過している解明の甚だ困難な事件であるから、前記のような、被告人Mが土田邸事件の犯人であることを窺わせるSの供述、さらにはHの供述を入手した以上、被告人Mを取り調べるのは当然であり、かつ、その取調べも自然と厳しいものに赴かざるを得ないものであろうけれども、刑訴法は兇悪重大な事件であるからといつて別異な捜査方法を許しているものではなく、右のような事情を斟酌するにも限度があり、本件の前記取調べをもつて違法と断ずる結論は、やむを得ない次第である。

そして、右取調べの違法の程度は、軽微とはいえず相当重大であるから、このような違法な取調べによつて得られた自白を録取した三月一三日付の検面調書及び員面調書は、この点においても、被告人Mに対する関係においてばかりでなく、他の被告人らに対する関係においても、証拠能力がないと解せざるを得ないものである。

二日石土田邸事件による逮捕後起訴前の勾留中に作成された供述調書及び供述書の証拠能力

(一)  事実関係

関係証拠によれば、つぎの事実が認められる。

(1)  被告人Mは、三月一四日午前、すでに三月一一日に発付されていたピース缶爆弾製造事件の逮捕状及び三月一三日の自白後に請求し発付された日石土田邸事件の逮捕状により同時に逮捕され、同月一六日これらの事件で勾留請求されて同日から四月四日まで二〇日間勾留され、その間に主文第三表番号2ないし12の各員面調書、同第四表番号2ないし10の各検面調書、同第五表の被告人の供述書が作成されたこと(なおピース缶爆弾関係については、主文第一表番号8及び9の各員面調書並びに同第二表番号8ないし10の各検面調書が作成されている。)。

(2)  この期間における司法警察員の取調べは、従来と同様通常丙警部補ら四名が二〇号調室に在室して行われ、検察官の取調べは、丁検事が同室に出張して行われたこと。

(3)  また、この期間における取調べは、午後から始められたことも数回あつたが、午前中から行われることが多く、その終了時刻はほとんど毎日午後九時から一〇時ごろであり、一日の取調時間(取調室在室時間)は平均一〇時間弱であり、留置人出入簿によれば、麹町警察署への帰房時刻は、午後五時から六時の間が一日、午後八時から九時の間が一日、午後九時から一〇時の間が七日、午後一〇時以降が一三日(最も遅い時刻は午後一〇時四〇分)となつていること。

(4)  この間における被告人Mの日石、土田邸事件についての供述内容は、三月一三日夜丙警部補に対して自白した基本線、すなわち、「日石土田邸事件の爆弾は被告人Mと同Eが相談して同Eが製造し、その郵送は、被告人Mと同Rとが相談して同Rの責任で行つたもので、爆弾の製造状況や発送状況は知らない。被告人Mは雷管の製造に関与しているほか、被告人Eが製造した爆弾を受領してこれを被告人Rに渡しているにすぎない。」旨の内容を出ないものであつて(なお、三月一三日丁検事に対してした最初の自白は、「土田邸事件の爆弾は自分が製造し、郵便局から送つた。日石爆弾も自分が製造し、「女の人」に郵便局に差出しに行かせた。」という趣旨のものであるのと異なつている。)、取調官としては、被告人Mは製造、郵送にも関与しているか、少なくとも製造状況、郵送状況について具体的に知悉しているはずであるとの見地から、事件の核心である製造及び郵送について追及したが、結局これらの点については供述が得られず、雷管製造、爆弾を被告人Eから受け取り被告人Rに渡すに至るまでの事実、昭和四五年六月ごろの雷管製造及び興津海岸における爆弾実験等に関連する事項についての供述が得られるにとどまつたが、この間被告人Mが否認に転じたことはなかつたこと。

(5)  被告人Mは、前記認定のような経過で日石土田邸事件という極めて重大な事件を自白したものであつて、おのずから後のことについて色々思い悩むとともに、内妻の被告人Nを、被告人R及び同Eとともに共犯者として当初自白したため、被告人Nも逮捕されたこと(なお、同被告人は当時妊娠中であつた。)にも心を苛まれ(以上につき、三月一四日以後の取調状況報告書参照)、連日長時間の取調べによる疲労も加わつて、精神的、肉体的疲労が深まつたと窺われること(この点は、証人Hが、この頃の被告人Mについて、夜間盛んに咳込むようになり、肉体的にも衰弱していると思つた旨、及び他の居房者と被告人Mについて、「よく体が続くな」と話していた旨供述していることによつても、窺われる。第六一回公判調書中の同証人の供述記載参照。)。

(6)  この時期の取調状況報告書によると、被告人Mには、いわゆるがつくりと来た様子、「記憶にあることは全部述べた、あとは知らない、どうにでもなれ」といつた自棄的態度、打ちひしがれたように机に伏し、また、説得により涙を流す姿がその時々に見られた旨の記載がある。それは、右にも記したように重大事件を自白したことから胸中に起伏する様々な感情、自己の身の将来に対する不安、内妻Nに対する心配等が複雑に入り交じつた感情の現われのように認められるのである。

(7)  なお、接見報告書によると、この期間には、被告人Mは、弁護人と、三月一四日と二〇日に各一五分、二七日と四月三日に各二〇分面会している。

以上のような諸情況が認められる。

(二)  判断

そこで、以上の事実関係のもとに、右の期間に作成された日石土田邸事件に関する供述調書及び供述書の証拠能力について判断する。

(1) この間の取調べは、日石土田邸事件についての適法な逮捕及び勾留中のそれである(なお、逮捕状の発付及び勾留の裁判の基礎となつた疎明資料の中に前記三月一三日付の検面調書及び員面調書があるが、それらが作成されるについての取調べの違法性は当時においては必ずしも明瞭ではなく、また、他にも疎明資料として前記S、Hの各供述があつたことを考慮すると、逮捕及び勾留自体をあえて違法と断ずることはできない。)。したがつて、その取調べは本節(第二)の前記(二)(2)で述べた(ロ)の場合に当り、被告人Mとしては日石土田邸事件についての取調べを受忍しなければならないものである。

しかし、右に認定した諸情況に徴する判旨と、この時期においては、三月七日から一二日にかけての間に見られたような厳しさほどの追及はなかつたが、一二日の取調べの終わるころから一三日にかけて認められた、自白するように相当追い詰められた心理状態は、基本的に、依然として継続したものと認められる。そして、このような状態において、三月一三日の自白が維持されるとともに、新たな内容の自白をし、供述調書及び供述書が作成されたものと認められるのである。

そうだとすると、これらの自白は、三月一三日のそれと同様に、いずれも任意性に疑いがある自白と認めるほかはないものである。ただ、主文第三表番号2の三月一四日付員面調書中一項ないし八項については被告人Mの経歴等に関する供述であり、また、同第四表番号3の三月一五日付検面調書中四丁表一一行目までは、同様、経歴、思想等に関する供述であり、供述事項に徴して任意性及び特信情況を認めることができ、刑訴法三二二条一項の要件を満たすものである。

なお、ピース缶爆弾事件の関係では、右三月一四日付員面調書(主文第一表番号8)中の第一二項、及び右三月一五日付検面調書(主文第二表番号8)中四丁表一二行目から五丁表一行目までの部分は、いずれもピース缶爆弾製造事件についての否認供述であり、刑訴法三二二条一項の要件を欠くので証拠能力がないことはすでに判示したとおりであり、また、主文第一表番号9三月二二日付員面調書、同第二表番号9及び10の各検面調書は、以上に判示した事情の下で得られた自白を録取したものであつて、いずれも任意性に疑いがあるものと認められる。

そして、以上のような自白の任意性に疑いのある各供述調書は、被告人Mに対する関係においてばかりでなく、他の被告人らに対する関係においても、証拠能力がないものである。

(2)  そこで、特信情況があると認められる前記各調書の部分についてであるが、刑訴法三二二条一項の請求との関係では、右部分はいずれもその要件を満たしているが、同法三二一条一項二号請求及び同法三二八条請求の関係においては、それぞれ、その内容に照らし、証拠とする必要性に乏しく、採用しない。

(3) なお、以上のようにこの時期の自判旨白にも任意性に疑いがあるとすると、捜査官がある被疑者を取り調べて追及中、一度任意性に疑いのある状態で自白を得た場合には、それがいつまでも尾を引き、令状を得て取り調べても、もはや自白の証拠能力を回復することはできないのか、という疑問が提出されるかも知れない。原則的にはそのとおりであつて、自白の任意性に疑いがあるかどうかは、基本的には被疑者の自白する心理状態という事実によつて判断されなければならないものであり、いわば一度歪められた心理状態自体はその後令状が出たとしてももとに戻るものではないからである。それゆえ、被疑者の取調べを指揮し、統括する上層部の司法警察員、さらには捜査を指揮するとともにみずからも被疑者の取り調べを行う立場にある検察官は、つねに司法警察職員による被疑者取調べの状況に注意し、自白の任意性に疑いを招くことのないように指導するとともに、一度そのような疑いを招きかねない状態が生じたと判断したならば、その時期において直ちに指導してそのような状態を除去するとともに、いわば歪められた被疑者の心理状態の回復に適切な措置を講じなければならないものである。このことは、すでに判断を示した取調べに関する違法性についても同様である。本件では、自白を得ることが甚だ困難であつたにしても、あまりにも被疑者に対する追及に急であつて、このような配慮が払われたことは認められないのである。

三土田邸事件の起訴後に作成された供述調書の証拠能力について

(一)  事実関係

関係証拠によれば、次の事実が認められる。

(1)  被告人Mは、以上の取調べの後、勾留最終日の四月四日に土田邸事件及びピース缶爆弾製造事件について起訴され、日石事件については、処分を保留されてその勾留は終了したが、その後も日石土田邸事件につき、従前と同様に五月五日日石事件の起訴に至るまで連日取調べを受け、その間に主文第三表番号13ないし23の各員面調書及び同第四表番号11ないし23の各検面調書が作成され、その後六月五日に同第三表番号24の員面調書が作成されるに至つたこと。

(2)  この期間において取調べを担当した検察官及び司法警察員並びに取調場所(及び勾留場所)は従前どおりであるが(但し、四月二三日は東京地方検察庁で取調べが行われた。)、この時期においては、本件共同被告人ら(被告人N及び同Eを除く。)及びK、Tが日石土田邸事件に関し供述をするようになり、それらの供述に現われた事実を告げて追及し、場合によつては供述者を明らかにして取調べを行つていること(この点は○○証言からも認められる。)。

(3)  この間の取調時間については、開始時刻は従前とほとんど変わらないが、終了時刻は、四月五日から一九日まですべて午後九時半以降に及び、うち午後一〇時半以降に及んだものと認められる日は五日間に達しており、帰房時刻は、その間すべて午後一〇時以降となり、午後一一時以降が五日、最も遅いのは四月八日の午後一一時四五分であること、しかし四月二〇日以降は帰房時刻はかなり早くなり、午後九時を過ぎたのは二日間のみとなり(最も遅いのは午後九時三〇分)、午後四時台が二日、午後六時台が三日、午後七時台が二日、午後八時台が六日となつており、それに従つて取調時間も短縮されたこと。

(4)  被告人Mの供述内容は土田邸事件の起訴後大きく変わり、同被告人も各爆弾製造行為をし、郵便局への各爆弾の搬送行為をしたことを含めて、ほぼ検察宮冒頭陳述(変更前のもの)と同内容の全面的な自白をするに至つたが、その特徴として、種々の点で供述内容が変遷するとともに、その供述内容は、すでに他の者において供述されているか、捜査官が証拠物から知り得る内容にほとんど尽きており、また、他の者の供述をいわば追うようにして供述していることが、顕著に認められること。

(5)  土田邸事件起訴後における丁検事作成の供述調書につき、土田邸事件及び日石事件別に、作成順にその内容を対照してみると、いずれも主として搬送に関する部分であるが、土田邸事件については四月九日付供述調書の内容がその後の四月一九日付供述調書に、また日石事件については四月一五日付供述調書の内容が四月一九日付及び二五日付供述調書にそれぞれ基本的には同文のまま記載され、他の者の供述に現われた事項や変更を要する点について挿入、変更を加えたものになつているが、このような形式により調書が作成されているのは、他の者の供述を検討したうえ、あらかじめ挿入や変更を要すると思料する点を拾い出しておき、前の調書を読み進めながら、それらの点について他の者の供述をもとに問い質しながら調書を作成したのではないかとの疑いがあり、そうであるとすれば、日石、土田邸の爆弾の製造等についての四月二五日以降の供述についても、同様に他の者の供述を検討しその段階において捜査官が事実と認める内容を被告人Mに告げ、それを同被告人が承認することにより、供述調書を作成していつた疑いがあること(このことは、供述内容の変更に関し、単なる記憶違いとは考え難い点についても、変更理由の供述の記載が乏しいことからも窺われる。)。

(6)  六月五日付員面調書は、日石土田邸事件の各爆弾の搬送当日の被告人Mらの服装についての供述を録取したものであるが、日石事件起訴後も、ほとんど連日、丙警部補らが同被告人を取調室に呼び出して、雑談をしたり、茶菓を出したりして接触を続けており、その中で作成されたものであること。

(7)  なお、接見報告書によると、この期間(六月五日まで)における被告人Mと弁護人との面会は、四月二〇日(三五分間)一回のみである。

以上の事実が認められる。

(二)  判断

大要以上のような事実関係をもとに、右期間に作成された供述調書の証拠能力について判断する。

(1)  自白の任意性

さきに四月四日までの時期について、それまでに形成された被告人Mの心理状態を考察し、自白の任意性に疑いがあると判断したが、四月五日以降のこの時期(六月五日の取調べを含む。)においても、右心理状態が改まつたとは認められず、前記認定のような、相変らず連日にわたる相当長時間の取調べ等からして同被告人の肉体的、精神的な疲労はむしろさらに深まつたものと推認され、この時期に共犯被疑者らも自白している旨を取調べに当つて告げられ、これが同被告人の心理状態に何らかの影響を与えたことは考えられるにしても、基本的にはそれ以前の心理状態は維持され、継続したものと認められるのである。したがつて、この時期の各員面調書、各検面調書に録取されている自白はいずれも任意性に疑いがあり、これらの各供述調書は、この点において、被告人Mに対する関係においてばかりでなく、他の被告人らに対する関係においても、いずれも証拠能力がないものである。

(2)  起訴後の取調べ及び被疑者勾留満期後(別件起訴勾留中)の取調べの適法性

四月五日以後被告人Mを土田邸事件について取り調べることは、起訴後当該事件について被告人を取り調べる場合であるから、本節(第二)の前記一(二)(2)で述べた(ハ)の場合に当たり、また、日石事件について取り調べることは、被疑者としての勾留満期後別件につき起訴され勾留中の被告人をその被告事件以外の被疑事件について取り調べる場合であるから、同(二)の場合に当る。したがつて、いずれの取調べも、本来任意の取調べ(同(イ)参照)として許されるにとどまるとともに、土田邸事件については取り調べ得る事項も捜査の補充的事項に限られるべきものである。

ところが、捜査当局は、被告人Mは四月四日までの取調べでは未だ真実を供述していないとし、日石事件についてはもとより土田邸事件についても依然として取調べの必要があり、同被告人がこれを拒否しないで応ずる以上法的にも許されるとの見地から、四月五日後もそれ以前と同様に連日麹町警察署から警視庁本部地下の取調室に連行して取調べをしたものである。

すなわち、まず、取調べの期間、時間について見ると、すでに認定したとおり、この期間の取調べは、起訴前の勾留期間よりも長期にわたり、連日継続して、しかも毎日の取調時間も起訴前とあまり変りなく、むしろ帰房時刻が遅くなる傾向も見られたものである。

また、被告人Mに対する追及的取調べも、日石事件及び土田邸事件について、土田邸事件の起訴前に引き続いて行われていたものであつて、その結果、両事件についての同被告人の自白の主要な部分がこの時期に得られたものである。

そうだとすると、この時期における被告人Mの取調べは、土田邸事件、日石事件のいずれを問わず同様に、司法警察員のそればかりでなく、事実上これと密接した検察官のそれも、同被告人の被告事件の勾留による身柄拘束を利用し、起訴前と同様の取調べを(さらに起訴前より長期間)継続したものと見ることができるのであつて、任意捜査として許される取調べの限界を超えていたことは明らかである。

判旨なお、右のうち特に土田邸事件については被告事件について被告人を取り調べることになるが、当時共犯被疑者として逮捕、勾留中の者らから同事件についての重要な自白が出ていた段階であつたから、それならそれで、捜査当局として、日石事件の取調べと区別して、それらの他の被疑者の自白に照らして被告人Mの起訴前の供述の曖昧さ、不正確さ等について質問し、再度供述を求めるという程度の補充的な取調べをし、あるいは、日石事件との関連で必要な取調べをするのならばともかく、日石事件と特に区別せず、前記のような見地から土田邸事件についても起訴前と同様な全面的取調べを行い、その結果検察官の冒頭陳述に沿うような内容の重要な自白を得たものであつて、すでに起訴された事件の被告人の取調べとして許される事項の限度を超えたものである。

また、六月五日の取調べは、時期的に離れているが、右のような取調べの結果得られた供述の補充であり、前記(一)(6)のような捜査官と被告人Mとの接触状況をも考えると、取調べの適法性につきそれだけを別異に扱うことはできない。

もつとも、この時期においては、捜査当局としては、当時共犯として逮捕、勾留中の被疑者らから土田邸事件ばかりでなく日石事件についても重要な自白が次々と出て来ており、したがつて、その関係でも被告人Mを追及して供述を得る必要のあつたこと、被告人Mは、この期間中の取調べについて明示的にこれを拒否したことはなかつたこと等の事実があることは認められる。しかし、このような事情があるからといつて、この時期における被告人Mの取調べが以上のように任意捜査としての取調べの限度を甚だしく超えることを正当化するものではないことは明らかである。

そうだとすると、四月五日以後の被告人Mに対する取調べは、任意捜査として許される限界を超えたものとして違法といわなければならないものであり、その違法の程度は相当重大であつて、このような取調べの結果得られた同被告人の自白ないし不利益事実の承認を録取した員面調書及び検面調書は、同被告人に対する関係においてばかりでなく、その余の被告人らに対する関係においても、いずれも証拠能力がないといわなければならない(なお、これらの供述調書中もつぱら土田邸事件に関する部分は、被告事件についての被告人の取調べとして許される事項的な限界を超えており、証拠とすることの同意等の特別な理由のない以上、その点でも証拠能力がないものである。)。

なお、検察官は、四月五日以後における被告人Mの取調べは、これを必要とする具体的事情があり、同被告人は異議なくこれに応じたほか、その取調べに格別不当な点もなく、しかも第一回公判期日前にその取調べを終了しているから適法であると論じている(第一七九回公判調書添付の意見書参照)。右に述べたとおり、被告人Mを取り調べる具体的必要性のあつたこと、同被告人が明示的にこれを拒否することなく、実際上取調べに応じたことは、認められる。しかし、被告人Mが取調べを拒否しなかつたのは、当時起訴後の勾留により身柄を拘束されていたため捜査官の取調べの要求にやむを得ず応じたと認められること(少なくとも、その機会に日石土田邸事件について詳細に供述していわゆる清算をしたいという気持から進んで取調べに応じたものではなかつた。)、取調べの個々の方法の当不当は別としても、取調べの時間は起訴前のそれと同様連日、しかも相当長時間に及んでいたこと(取調べの場所も全く同じである。)等に徴して(なお、第一回公判期日前には終つているとはいえ、起訴前の勾留期間を上廻る期間にわたるものであつた。)検察官の意見は首肯することができない。

付言するに、土田邸、日石各事件は、いずれも事案重大であり、捜査の困難な事件であり(この点はさきにも述べた。)、また、両事件は実質上密接に関連するものであるとともに、この時期に共犯被疑者らが供述を開始したこと等の事情があり、捜査当局に依然この時期においても被告人Mを詳しく取り調べる必要性があつたことは認めなければならないが、刑訴法上どのような事件でもひとしく起訴前の勾留期間が厳しく制限されていること、殊に被取調者は起訴後は被告人となつて検察官と相対する当事者となることを考えるならば、右のような事情を考慮するのにも限界があり、右の結論はやむを得ないところである。

よつて主文のとおり決定する。

(大久保太郎 小出錞一 小川正持)

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